モビールブログ · 8月 12, 2009

モビールのビッグバン

ビッグバンの夢

空間はおろか時間さえなかったという絶対的な無からインフレーションによる相転移を経て、宇宙は ビッグバンで始まりました。たかがモビールの話にビッグバンを持ち出すなど途方もないと思われる かも知れませんが、モビールの将来を語るのにビッグバンほど都合のいい事例はないような気も

しています。

多分高校生だった頃に私はウェゲナーの“大陸移動説”を知り、ヘディンの“さまよえる湖”を読み ガモフの“ビッグバン宇宙論”を読んで、天空を目指すピカールや海底を紹介するクストーに 憧れながら、自分ではモビール一ツをさえどうすることも出来ずに今日を迎えてしまいました。 大学生時代に夢見たあれもこれも、それなりに筋の通った言い訳を理由にして手つかずのままに

放置してきてしまいました。

私の話は馬鹿な親が子供に一流を目指せと言っているみたいなもので笑止千万、おヘソが茶をわかして しまうような話であるに違いありません。ただ多少の弁解を許していただけるなら、馬鹿な親が自分の 人生を振り返ってあれをしていれば、あれをしないでいたら、あの時こう考えていたら、あんな考えを しなかったらと口惜しがりせめてわが子にだけは・・・・・と思うように、私も又ご多分にもれずそんな親達と ゲノムを共有する同じ人間であったということです。同じ人間であれば北京原人もネアンデルタール人も 考えることやすることは似たようなものです。 壁がなければ絵は描かれなかったでしょうし、床がなければジュウタンも敷かれなかったでしょう。 反対に壁があれば人々はそれを何かで飾りますし、床があれば何かを敷いて居住性を高め、美観を 高めようと考えます。しかしそうするまでの長い間、人々はそれらが無い生活に何の痛痒も感じずに 過してきました。むしろ、ひっかけたりつまづいたりしかねないそんな物は無い方がいいとさえ思っていた

筈です。

モビールは今、そんな状況にあると思えばわかりやすいのではないでしょうか。 その当時の人達に、後世の部屋の壁には絵が飾られているのですよ、床にはジュウタンが敷かれて いるのですよ、と言ってみたところでさしたる意味があるとは思えません。同様に、部屋には空間が 残されていますよ、後世の空間にはモビールが吊られているのですよ、と今の人に言ってみても “空間は人が動くためのスペースだ”とか、“物で溢れている部屋にこれ以上何かを加えたくない”とか

筋の通った反論が返ってくるであろうことくらいは容易に想像出来ます。

それは外気をさえぎるための窓にカーテンをつけた時にも、テーブルにクロスをかけた時にも 言われたであろう反論と同様に、きわめて筋の通った理屈です。にもかかわらずカーテンも テーブルクロスもかけられました。理由は簡単です。当時の上流社会ではそうしていましたし そうする方がカッコイイと誰もが思っていたからです。 モビールがまだ一般に普及していないのは普及する筈がない沢山の理由があるからではなく モビールを吊ることによって高級感を高めたり、いやされたり安らいだり楽しくなったりする 良いモビールがないという、ただそれだけのことにしか過ぎません。 モビールで人が動けなくなるほどに吊るわけでもありませんし、モビールを吊ることによって 不要になる部屋の余分なデコレーションはいっぱいあります。モビールはむしろ部屋をスッキリと

見せるための道具でなくてはなりません。