酒屋のオヤジはゆううつだった。この1ヶ月ほど歯が痛くて 食事らしい食事をしていない。近所でも評判の酒好き女好き が災いして毎日のように繰り返してきた夫婦喧嘩も、ここ しばらくはお休みだ。オカユとミルクに浸したパンばかりでは 喧嘩はおろか、馴染みのホステスさんをからかう気力さえ 失せてしまう。もはやこれまで、世の中で一番苦手な歯医者 に行かざるをえないのか。友人・知人がすすめる名医達の 情報を振り切って、オヤジは近所の歯医者を選択した。独身 の女医さんが一人できりもりする地域密着型の歯科医院だ。 心を込めてお願いすれば多少の手心は加えてくれるだろう。 少なくとも男の医者よりは優しかろう。椅子に座って口を 開けて、まぶしい光に耐え薬の臭いに耐え、歯を削る機械 の不気味な回転音に耐えていた。間近に迫った女先生の
黒い瞳が涼やかだった。
オヤジにとって、それは信じられない結末だった。 優しさを期待して選んだ筈なのに、まずはちょっと診てもらうだけだった 筈なのに、先生は何のちゅうちょもなく歯を抜いてしまった。まさかの時 の用心にとプレゼントを準備して、窮屈な姿勢で天井にヒートンをねじ込み
糸の長さを調節し、モビールの水鳥をぶら下げてあげたのに・・・・。
でも、酒屋のオヤジは大らかだった。 虫も殺さぬ風情の女先生に裏切られはしたものの、この傷口が ふさがりさえすれば、大好きなあわびの刺身を食べられる。
口うるさい女房と五分に闘える。
男度胸の人生の節目の一ツを乗り切った。
よだれにまじる血の色に、男の美学が冴えていた。